★ a 「 散 花 」 (2004年4月)
鴨川べりをカイ(7ケ月の愛犬)と散歩するのがすっかり私の朝の日課となりました。
カイは日に日に活発になり、我々のくり返す言葉さえ理解するようになりました。「ママは?」「パパは?」とか「サンポ」と言った言葉には見事な反応をします。散歩と言う言葉を聞くや否や動きが活発になり、居ても立ってもいられない様子で“待った”が利きません。
鴨川べりでは、もっか好奇心いっぱいのカイは心踊る想いで右へ左へ思うがままに駆けずり回り、楽しくて仕方ない様子。カイの気持ちに誘われて、つい私も心楽しい気分が溢れて来ます。
そんなカイと私に何処からともなくハラハラと桜の花びらが降り注いで来ます。思わず見上げ、見渡しても近辺に桜樹は見当たらず、ただひたすらに春風に乗って花びらだけが舞い落ちて来ます。
つい先頃まで川を気侭に過ごしていたユリカモメの群れが、上昇気流に乗って大きな円を描きながら次第に高く高く舞い上がり、遥かな上空で時折キラキラと小さく光りながら去って行ったあの天空から、今、舞い上げられた桜花の花びらが、春風と共にひたすらカイと私の上に降り注いで来ます。足元ではタンポポを始め野草が小さな花をいっぱいに咲かせ、新芽が若い緑を見せながら春を謳歌して、まるでボッティチェッリの『春』のような気配と風の中、私はカイとともに朝のサンポにやむなくも余念のない毎日となっています。
つ づ く
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★ `「 歳 月 」 (2004年2月)
母親は平成を11日間生き、12日目の未明に78歳で死んで行きました。そして2日目の平成元年1月20日に葬儀が取り行われました。
松の内を過ぎて数日と言う時期にも拘わらず、その日は葬儀の直前から大変激しい土砂降りの雨が降り始め、葬儀の間中、降り止みませんでした。冬のさなかのこんな土砂降りを私はその時以外、未だに経験したことがありません。
「お袋はこんなにも沢山な想いをじっと堪えて居たのかなあ」とその雨をお袋の涙に模して、喪服をズクズクに濡らしながらそのとき私は思いました。
母親はいつの時も何事にもひたすらジッと耐えている人でした。
老いてから、やむなくたったひとり取り残された時、自由さより、独り居の寂しさにやるせない想いをしていたように思います。そうした心を紛らすように、私達息子のチョッキやセーターを良く編んでくれました。何処から聞きかじったのか、「今は大きいのが流行ってるにゃ」と言い、沢山な毛糸の束を買い込んでは、ひと目ひと目せっせと編んでおりました。しかし、編む度毎に「今は大きいのが‥‥」をくり返し、徐々に徐々に随分大きな物になって行きました。
その折も私の好きな“トックリセーター”を編み上げてくれましたが、着てみてビックリ、ひと回りもふた回りものあまりの大きさ。裾と言わず手先と言わず余り有る長さ。どうにも着て歩くには様がつかず、それ以来、無用の長物のように、箪笥の奥に仕舞い込んでおりました‥‥‥。
最近は冬と言えども暖冬気味、遅れがちに、厚手のものをと引き出された中に、長年仕舞っていたあのセーターが‥‥。 着ることも無く、そのまま仕舞われていたために、お袋の手編みのひと目ひと目がまだ真新しく感じ取ることが出来ました。思い立って手を通してみると、あの大きくてどうしようも無かったトックリセーターが、今何故かピッタリと私の体に合ってしまいました。不思議と袖先も測ったように、また裾もそこそこに‥‥。
私の体型が変わり着く15〜6年の歳月を、母親の想いは箪笥の片隅でひたすらジッと耐えて待っていてくれたのでしょうか‥‥‥。
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★ _「小さな命」 (2003年11月)
小さな生命を授かりました!
とは言っても、今さら我が女房に子供が出来た訳ではありません。また娘が孫を生んだのでもありません‥‥。
長年親しくして頂いている御一家に4っつの小さな生命が誕生したのです。それから70日余り経って、その内の一匹の子犬を頂きました。
ボロ家ながら現在の住居へ越してからずっと“犬を”と言う思いを抱きつつ、もう何年も経ってしまいました‥‥。そんな所へ、知人からのありがたい朗報。一度、二度、三度と子犬達の様子を見に行った家内の顔が、その度毎に段々と込み上げる嬉しさで弾けて行きました。犬は私にとって小さい頃のヤンチャ仲間のイメージが強く、一緒に走ったり転げ回ったり、ふざけ合ったり噛まれたり、時には投げ飛ばしたりと、少々手応えの強い相手を考えていましたが‥‥。家内の顔つきや子犬の写真を見る内に、私も次第にその“愛らしい犬”を受け入れて行きたくなりました。
今、その愛らしい小さな命が、両親や弟姉妹と離れ、心許ない顔つきで初めて我が家にやって来ました。
抱き上げてじっと懐に宿らせると、微かに香ばしい子犬の匂い、心地良い幼毛の柔らさ、手のひらに響く鼓動、そして命のほの温かさ、じっと見詰める無心な瞳‥‥。
『ひとつのかけがえのない大切な命を預かった!』そんな思いがひしひしとしました。
もし私に男の子が生まれたら“華伊太”と言う名をと思っていましたが、今、この子にその名を授けることにしました。本名「小西 華伊太」‥‥通称「カイ」または「カイ太」をどうぞよろしく。
孫のような“カイ太”相手に、いい年の夫婦二人が今さらながらの“育児”に奔走。もう忘れてしまったような子育てが突然にもやって来ておおわらわの毎日です。そんなことが嬉しくも楽しい日々になっております。
★ ^「初秋の戸惑い」 (2003年10月)
季節の移り変わりは人の心を敏感に揺らすものですね。
殊、日本においては四季の変化が際立っていて趣き深く、人の心も季節の変化に大変敏感である様に思います。
ここ京都の夏の暑さは盆地特有の蒸し暑さで、9月の残暑の頃ともなるともうほとほとウンザリしてしまいます(何処もそうなのかもしれませんが‥)。厳しい暑さに抗し切れず「今年はもう冬なんか来ないのでは‥」と思いたくなるのですが、季節はそんな後にもやはり静かに巡り巡って来るようです。
暑さが癒えてほっとするやいなや、初めての秋一番の冷気と共に冬へ向かう大気を感じ出すと、何かしら心に不安や心細さを感じずにはおれない様に思います。この時期ふと心がナーバスになり、何かしら言葉にならない戸惑いや不安や人恋しさに襲われ、物事を感じ易い心理になる様です。初秋の憂感とでも言うのでしょうか‥‥。これが春や夏に向かうのならそんな思いにはなら無いのでしょうが、冬へ向かうことへの人の心理と言うものでしょうか‥‥。一旦寒くなって終えば覚悟も出来て、それはそれで何とも思わなくなるものですが‥‥。
日毎の夕暮れにもこれと良く似た感覚を覚えるように思います。人の生涯もまた同じなのでしょうか‥‥‥。
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