『 絵 空 事 』

a「変身舞妓」

 数年前から京都では観光客相手に舞妓の装いをさせる所謂“変身舞妓”と言うものが結構流行っており、最近ではその業者数も大変多くなっている様です。いっとき花街からもクレームがあったとは言え、私共がここで安易に云々することは止めておくにしても、舞妓の格好をしているからと言って、私はこうしたものをたとえ代用としても到底絵に描く気にはなりません。
 変身舞妓は遠くから見ても、京都の多くの人達はまず偽物とすぐ分かって終います。それはその姿形や着物や飾りの安けなさ、身に付かない化粧の様子、とつとつとした頼りなげな歩き方、それに限らず身のこなしの悪さ。当然のことながら誰もが想像する通り、洗練された本当の舞妓がかもし出す世界とは程遠いものです。

 舞妓を描くに当たり“変身舞妓”をこれ幸いと「誰か女の子に“変身舞妓”をさせて舞妓として描けば‥‥」と言ったような安易な発想を私は全くする気は有りません。それは花の絵を描くのにプラスチックの造花を描こうと言っているのと全く変わりのないことだと思います。
 実際の対象に向き合い、生に受ける感動や昂揚する想いも無いままに、ただただ「型」さえあれば‥‥とは考えません。また、いくらそうした偽物を描いてもそれは偽物以外の何物でもないと思えます。
 そうした偽物の型だけを写しても、なんの真をも得ないことだと私は考えます。


                                         つ づ く

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`「加筆」

 随分昔のことですが、あまり親しくない人から突然電話があり「ちょっと来てくれ」とのこと‥‥。
何事かと早速行ってみると、或る団体展の出品画制作の真っ最中で日時も切迫しており大へんな様子。作品の或る一画を指して「君なら出来るからそこを描いてくれ」と言われてしまいました。
 気持ちは分からないことはないですが、有り得ないあまりな申し出にさすがに私も驚きました。ヤンワリと断って私は手伝うことも無くその場を離れて帰りました‥‥。

 日本画の現在のあり方からすれば、画家として在ろうとすれば、自身の作品は自分の手で、自分の力で、自分だけで、作品の全てを創造するのは当り前のこと。人の手を借りた作品をもってして、“日本画家”とか“日本画作家”と自称してみせても世間の誰もが認めないのは当然のことで一も二も無く論外です。万が一、そうして入選しても、また、たとえ受賞したなどと並べ立てても全く何の価値も有りません。むしろ恥じ入るべきことだと思います。

 今さらながら、その人にとっても私にとっても、あの時手助けをしなくて良かったとつくづく思います。


_「卒業制作」

 雪が静かに間断なく降りしきり、見つめる中の黒いうねりが時折霞むように見えかくれする。
ひと月、ふた月またそれ以上か、来る日も来る日もこの黒いうねりを追いかける毎日。ベンジンを入れた懐炉ひとつを暖として、秋の終わりからずっとこの対象を追い掛けて奔走していました。大学の4回生の終わりの頃のことでした‥‥。
 出迎えの小さなトラックに幾つかの荷物を乗せ京都を離れて行く私を、母は黙って見送ってくれました。そしてあの賑やかだった8人家族の住み家が両親と祖母を残すだけとなりました。
 私は4回生を迎えると同時に学校のある京都を離れ、知人の紹介で独り奈良に住み付きました。学校へはたまに行く程度で作品の合評会にすら出席することもなく、日中は重い道具を担ぎながら、奈良の市内を毎日自転車で駆けずり回って写生をし、また寺院や博物館で仏像を見て回ることに精を出し、主として夜は奈良の古い土蔵の一室でひとり黙々と自分の絵に向かっていました。
 日頃親しくして頂いていた主任の教授は最後まで私の行動を一言も咎めること無く黙って容認して下さいました。今から考えると何か有り難い包容力の広さや鷹揚な心を感じますが‥‥‥。

 奈良では公園内は勿論のこと方々で“藤”の木が繁茂していました。藤棚として整備されているものも有りましたが多くの野生の藤が至る所に有り、私はその姿を連日あっちの木こっちの木と描き尽くさんばかりに描いて回りました。藤の樹木はのたうつかのようにうねり、なお絡まりながら上へ上へと伸びようとしているのでした。私はこの姿に惹かれ、冬枯れの“藤”を卒業制作の題材として選びました。そして雪の日も携帯椅子にジッと座り込んで、濡れる画用紙に何時間もかけて一本の藤を描き切りました。若い精神の苦患や心のうねりの全てを、これから描こうとする絵に託す思いで写生に埋没しました。
 新年を迎えた頃から本紙に入り全力を注ぎました。無惨にも全焼してしまって今はもう存在しないあの古い2階建て木造校舎で、明けても暮れてもの制作が続きました。朝早くから夜遅くまでクラスの皆なが各々自分の絵に向かい続けました。たまに先生が制作現場にフラッと来られてひと言ふた言、「小西君、もっとシュールにしたらどうや!」などと。そんなひと言を自分の中で繰り替えし反芻し、また悩んだり惑わされたり、否否と意を覆したりしながら自分の絵と格闘するのでした。

 この思い出深い“たった独り”の闘いの中で生まれた『藤樹』は、卒業展で受賞し某かの賞金も頂き、卒業することもできましたが、残念ながら“買い上げ”にはなりませんでした。制作中、助手の先生が私の所へ採寸に来られて「日本画科の中でこの絵が一番大きいな!」とだけ言って帰られました。後々に聞いた話では、私の絵は当時校庭の片隅に有った小さな収蔵庫には入り切らない寸法だったそうです。勿論そんなせいばかりでは有りませが‥‥。  翌年の4回生は大きな絵をちゃっかり2枚折れの仕立にして描いていました。


^「画学生」

 時折若い画学生に会うことがあり話を聞きますが、学校では「何んにも教えてくれはらへん」とちょっと不満そうな様子。

   私の大学時代はもう何十年も前になりますが、本当に心充実した時期でした。絵のことだけで充たされた毎日でした。友人そして時には先生と来る日も来る日も絵の話ばっかり良くしていたように憶えています。先生方もそれぞれ個性的な方が居られたので、その先生の作品や絵に対する考え方や感じ方・その人間性を見聞きすることで大変刺激となり多くを学びました。

 けれども、実際の現場を知らない人には到底分からないでしょうが、大学の日本画科の現場では実技面で先生方が手取り足取り教えると言うことはまず有りませんでした。絵の具の使い方や筆使いひとつ具体的に教わることは有りませんでした。見よう見まねや自分で考え自分で工夫し、自分の目指す絵のための自分流のやり方を作っていくことが、放任の暗黙の中に内在していたように思います。時折の言葉のアドバイスを受けることは有っても、学生の絵に対して先生が手を入れるというような直接的な指導などまず有りませんでした。現在、大学の現場にいる友人の大学教授も、学生にとっては「あんまり教えへん方がええな〜、教えへん方がええ絵描きよるわ」と苦笑いして話していました。日本画の学生の現場は善しに付け悪しきに付けても我々の頃とあまり変っていないのかもしれません。

 学生の頃は、皆なが自己確立を信条とする画学生として、誰をも恐れない気概で過ごしていました。生意気なものでした。従って現場の空気として、自分の絵に手をつけられると言うことは本人も好まないし、先生方でさえ直接的に筆を入れるとか手直しをするとか言うことはまず有りませんでした。学生とは言え“一己の絵描き”と言う自負心・自立心を先生方も大切にされていたのではないでしょうか。

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