★ b 「私の牛丼」 ★ a 「虫にあらず」(その1) ★ `「二枚目の写真」 ★ _「水撒きと三味線」 ★ ^「湿った煎餅」
「鑑別所へ連れて行くよ !!」
色白の顔を紅潮させ、充血した目でその若い女先生は皆なを叱りつけました。
みんなが等しく貧しかった。
それぞれの親が精一杯“よそ行き”を着せて送り出したろうに、みんな貧し気でいかにもみすぼらしかった。10人余りが並列し4段ほどの階段状に並んだ良くある記念写真。終戦後4〜5年と言った頃、見るからに貧し気な服装で少しも晴れやかさのない表情。何も分からないながらも、戦後の世相を反映した我々子供達の偽らざる姿だったのでしょう。この小学校入学当時の記念写真には中央に腰掛けた校長先生、そして我々の傍らに立つ若い女先生‥‥。
この女先生は小学校6年間のうち1年生・3年生・4年生・5年生と4度も私の担任でした。この小学校へ新任したばかりの若い先生で、当時の流行かサザエさんのような髪型が印象的で、女性らしい優しさとしっかり者のキッとした強さを感じさせました。4〜5年生のやんちゃ盛りの頃でしたか、女先生は時折我々を少々ヒステリックに叱りました。そしていよいよ手に負えなかったのか最後には『鑑別所へ連れて行くよ!!』が教室に響きました。鑑別所がどんな所か、そこへ連れて行かれるとどうなるのか、何も知らないまま子供心に漠然とした恐怖を覚え、いつも皆で頭を低くするのでした。
正月、私達4〜5人揃っては毎年のように先生の家へ遊びに行きました。市電で四つ程先の先生の家まで出掛けて行きました。電車を降りて一筋目の路地を入ってしばらく行った所の小さな家。子供気もない少人数の静かな暮らしのようでした。狭い玄関のたたきに入ると頭上に1台の自転車が吊り上げられていたのを何故か奇妙な光景として憶えています。その傍らの3畳程の玄関間で我々は楽しいひと時を過ごすのでした。
歌留多をしたりトランプをしたり、部屋の角に据えた火鉢で先生は良くお餅を焼いてくれました。加減良く焼いては醤油を付け、また網で炙っては醤油を付けを繰り返す。そうして香ばしく焼けた餅を私達にいくつも食べさせ世話をやいてくれました。ある時は、大きな茶碗にこんもりお肉の入った御飯を皆に食べさせてくれました。今まで食べたことのない美味しさになんとも皆な夢中で食べました。今思えば、私にとってこれが初めての“牛丼”と言うもので、忘れられない一番美味しい牛丼となりました。
先生の家を後にして、時には歩いて家路に付きました。先生の家の近くの大きい橋から川に沿ってひとつ目の小さな橋を渡った所が我々の住む町です。
先生の家の路地から出て、電車駅と反対の方向へ向かって歩き出すと間もなく、周囲を塀で囲われたあの『少年鑑別所』がありました。その前を通り過ぎながら我々は互いに戯れ無邪気に家路に付いたのでした。
通知簿の片隅に書かれた私への助言は未だに私が克服しかねている弱点で、早くから良く見抜いてくれていたものだと今さらながら感じます。我々にとっては時には厳しくもあり優しくもあった母親のような人でした。
私が大学卒業時に展覧会の案内を出すと、いち早くお祝いに駆け付けてくれましたが、その後、引っ越しもされてそれ以来会えていません。お元気なら嬉しいのですが‥‥。
私が歩む一歩前をS字状のものが突然滑るようにして擦り抜けた。私は思わずアッと立ちすくんだ。
公園周りの黄土色の石畳風の道を私は傘を差し掛けながら急いでいた。梅雨の雨がうっすらと石畳に溜まった中を50cm足らずの溶け合う色の細い蛇が私の足元の一歩先をしなやかに体をくねらせ素早く擦り抜けた。
毎日愛犬カイと散歩する緑いっぱいの鴨川ですら最近蛇を見たことがない。こんなアスファルトに囲まれた観光地の一角の公園に蛇が生息していたことに私は驚いた。またそれ以上に、この“虫”ヘンを名乗りながら虫でないちょっと苦手な「蛇」の出現に私は何よりもドキッと震えた。(2005年6月のこと)
私は京都の繁華街からバス停2ツ3ツの所にある実家で20代半ば過ぎまで日々暮らしていました。そこは市電が走る表通りに面し、背中合わせで計20軒ほどの町家が一画をなしていました。
この生家のある一区画の中に「主(ぬし)」と言われた青大将が、私の小さい時より長年棲み着いていました。「昨日は‥」「この前は‥」と一画の家のあちこちに時折現れ、近所の挨拶代わりの話題ともなりました。いつか何処かで棒切れででも打たれたのか、その末尾に細い尻尾の先はなく、どっちが頭かと見間違えるような丸く膨れた尾が“双頭の蛇”のようにも見え、なんとも無気味に感じたものでした。
或る時には我が家の塀を這い、また山茶花の木によじれ、激しく犬に吠え立てられながら、母の立てた線香の煙りをいぶかるかの様子でゆっくりと庭を徘徊したり、時には風呂場の天井の湯気抜きから顔や腹を見せたりと‥‥。
忘れかけた頃の「主」の出現にいつも目一杯子供心におののいていました。
黒い羽織を着た母親と、少し緊張した面持ちの少年が電車を待っていた。ふと目にしたその珍しく懐かしげな姿に、私は穏やかな春の日の温もりを感じていました。(2005年4月のこと)
私には幼い頃の写真が有りません。兄達にはそれぞれ何枚もの写真が有り、私は幼な心に「なんで!?」と言っては父母を困らせました。すぐ上の兄の写真の傍らの人形を「自分だ」と負けん気に言い張っていたのを憶えています。
昭和18年に生まれた私は、もの心も付かない赤児のさなかに母の親元の田舎(京都府の丹波)に家族と共に疎開して行ったようです。大変な時代の食料事情もあってか、母は乳の出が悪く、私は村のヤギから“もらい乳”して育ったそうです。何処かでヤギを見かけても、ちょっと恨めし気なあの怪しいヤギの目を、何とはなく親近感を持って覘き込んでしまうのも、そんなせいかも???知れません。
私には戦争や終戦など何も記憶に無いとは言え、その大変な中に生まれ落ち育った“時代”にあって、写真や想い出作りなど、父母の心到る所でなかったのは当然のことだったのでしょう。
母は、穏やかな笑顔で、母の好きだった竹の文様の着物に黒い羽織姿でひじ掛け椅子に座って居た。その傍らで、白い大きな襟のワイシャツに制服まがいの上着と半ズボン姿で、母の膝に片手を置き、少し緊張した面持ちで小さな私は立って居た。
終戦から数年目、幼稚園の玄関で幼い仲間30人程との記念写真 に続き、母と二人のその写真が、今では私のアルバムの「二枚目の写真」となっています。入園式の帰り道、近くの小さな写真館の2階で母が記念としてくれたモノクロの写真でした。
「こらっ!」と突然怒鳴り声が飛んで来る。
青竹を模して緑に塗られたトタン板の塀が私達の家と裏の家との境をなしていて、竹垣状の凹凸にフシまでそれらしく作られた塀でした。三畳ほどの狭い庭に山や滝のような絶壁やそれから川や、餅突きの石臼を池のようになぞったこしらえもあり、その奥に緑の塀が2メートル程の高さを築いていました。
夏休みの陽射しが傾いた頃、母親から「水撒いといてや〜」と庭の水撒きをよく言い付けられました。乾き色の庭の石や土や緑が一段濃おい濡れ色に変わって行く変化すら、子供心に何かゲーム感覚の面白さがあって、よく水撒きをしたものでした。庭一面は勿論のこと、緑の塀の一番高いぎりぎりの所まで濡れ色に変える面白さに、柄杓の水の量や力の入れ具合を計りながら挑むのだけれど、ちょっとした手加減の狂いで塀の上を通り越し、裏の家へ飛び込んで行ってしまう。
すっかりの禿頭(今で言うスキンヘッド)のいかにも恐そうな親爺さんの「こらっ!」が、撒いた水の跳ね返りのように塀の向こうから飛び込んで来る。同い年のナオエちゃんの親父さんだ。その左隣の家も同い年のタムラさんの家。当時は通りと通りに囲まれた背中合わせの二十軒足らずの一画に2〜3人の同級生の子供がいて賑やかなことでした。怒声に萎えて物音を忍ばせ、そっとその日の水撒きを終えることも度々でしたが、また翌日も懲りずに尽きないゲームは続きました。
縁側に侵入してうたた寝の雑種犬“トミ”公。その傍らで同じようにゴロゴロとしながら、犬の投げ出した足裏を悪戯して過ごすこともしばしば。ちょっと気の荒いこの遊び仲間は時折本気で突然にガブッと来る。未だに私の腕にはトミ公の牙の痕がしっかりと残っています。
何かやの退屈を持て余していると、あの緑の塀越しに三味線の調子を合わせる音が響き出し、ナオエちゃんとそっくりな声の“おっ師匠さん”のちょっと鼻に掛かった会話が聞こえ始める。背丈の小さなちょっと粋筋な感じのナオエちゃんのお母さんのもとには、時折“お弟っ子さん”が三味線の稽古にやって来る。おっ師匠さんとお弟っ子さんの二人の三味線の聞き慣れた音が、ひとときこの一画を独特な情緒で包み込んで行く。
塀のこちら側では目も体も伏せたトミ公が、耳だけピンと立てて相変わらず居眠りし続ける。私も三味線の音を聞くでもなく何んとなく夕暮れのひと時に浸るのでした。
私が高校生の頃の強い台風であの緑の塀はへし曲げられ、その後、ブロック塀に建て直されて行きました。
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お互いに耳の遠くなった老いた二人の会話
甲「はア ??」
乙「はア ??」
甲「はあ ?? ‥‥‥ ア〜“歯”ですか、歯はまだお蔭さんで丈夫で‥‥‥‥」
互いに手をかざした火鉢を前に、祖父とその友人の俳句仲間の長閑なひととき‥‥‥。昭和20年代60幾才で亡くなる数年前の祖父の穏やかな日常のひとこまです。
当時、町の多くの家庭では似たり寄ったりかと思われますが、我が家も狭い家にこの祖父と祖母、両親、我々子供4人の計8人がひとつ屋根のもとに暮らしていました。私達家族の話し掛けにも祖父は度々手のひらを耳に添えて応えていたのを思い出します。
この父方の祖父は6才のとき父親を、12才のとき母親を次々と亡くし、幼くして天涯孤独な道を歩み出し随分苦労した人のようでした。母は祖父が亡くなってから「おじいさんは可哀想な人やった‥‥‥」とぽつりと私に言いました。そんな生い立ちもあってか、祖父は私達には優しく、温和な人柄の印象しか残っていません。
祖父は時折小さな私に自分の隠し置きの煎餅をこっそりとくれたりしましたが、口に喰わえて割ろうとしても、何故かいつも湿っていてシンナリとした割れない煎餅でした。そうした感触が妙に今でも蘇って来ます。
終戦後10年経つか経たぬかの、まだまだ貧しいけれどホッとしたような平和な日々の訪れを暮らし始めていた頃だったのでは‥‥。
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